+新しい視点
日本美術は長い間、西欧世界にとって未知の領域でした。1859年に日本が開国すると、海を渡り貿易が盛んに行われるようになりました。やがて、東洋芸術や日用品はヨーロッパ中に広まりました。とりわけ版画はまもなく西欧の芸術家の間で大変な人気を呼びました。
彼らの作品は西洋の常識を覆すものでした。特に異国的で鮮やかな色遣いは人々の目を奪いました。また、日本的な空間処理も斬新と受けとめられました。日本美術の作例は西欧美術に新たな方向をさし示したのです。
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日本のインスピレーション
日本の版画芸術はファン・ゴッホの最も重要なインスピレーション源で、彼は熱心なコレクターでもありました。浮世絵版画は彼にとって刺激剤で、それまでとは違った物の見方を教えてくれました。 しかし、彼の作品はそれによって根本的に変化したのでしょうか?
そしてぼくが思うに、もっと陽気で幸せにならなければ日本美術を研究することはできないだろう。日本美術は、因習にとらわれた教育や仕事からぼくたちを解き放ち、自然へと回帰させてくれる.
19世紀後半、日本から渡来するものは何から何までもてはやされる時代でした。フィンセントもこの「ジャポニスム」の洗礼を受けました。
オランダで日本の芸術を研究する芸術家はほとんどいませんでしたが、パリでは大流行でした。フィンセントはパリで、西欧世界における東洋芸術のインパクトを目の当たりしました。当時、彼はまさに、絵画の近代化に取り組んでいました。
日本美術は長い間、西欧世界にとって未知の領域でした。1859年に日本が開国すると、海を渡り貿易が盛んに行われるようになりました。やがて、東洋芸術や日用品はヨーロッパ中に広まりました。とりわけ版画はまもなく西欧の芸術家の間で大変な人気を呼びました。
彼らの作品は西洋の常識を覆すものでした。特に異国的で鮮やかな色遣いは人々の目を奪いました。また、日本的な空間処理も斬新と受けとめられました。日本美術の作例は西欧美術に新たな方向をさし示したのです。
フィンセントが浮世絵版画のセットを初めて買ったのは、アントワープ滞在中のことでした。彼は室内の壁に版画を画鋲で留めて飾りました。そして、弟テオあての手紙に、自ら思い描いた異国の街の様子を書き綴りました。
東洋芸術が爆発的なモードになったのは、それまであまり知られていなかった日本の文化が万国博覧会で紹介されたときでした。万博は1862年にロンドンで、その後1867年にパリで開催され、西欧の人々は、着物・扇・日傘・漆器のほか屏風などの日本の美術工芸品の虜となりました。
東洋からの珍しい産物は、パリの伝説的美術商ジークフリート・ビングらによってもたらされました。ビングは1888年5月から1891年4月まで、東洋美術や工芸品を扱う雑誌を自ら刊行しました。ファン・ゴッホも『藝術の日本』を愛読していました。
僕の仕事場はまあまだ。特にとても楽しい日本の版画を壁に貼ったおかげだ。ほら、庭で憩う女性とか、海辺、馬に乗る人、花や、節くれだったとげのある枝とかのだよ。
1886年の初めごろ、ファン・ゴッホはパリに住んでいた弟の元に身を寄せました。二人は一緒に版画を収集し、コレクションは相当な数に上りました。ファン・ゴッホはまもなくこれらの木版画に単なる楽しみ以上の意味を見出すようになります。彼は日本の版画を芸術的作例としてとらえ、西洋美術史上の傑作と同様に重要な作品とみなしました。
ファン・ゴッホはパリに移る前から版画を収集していましたが、本当に熱心にコレクションし始めたのはパリに住むようになってからでした。パリではまさに日本がモードでした。日本美術の熱狂的な収集家であったフランスの画家アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックといった芸術家仲間たちの影響もあったと思われます。
日本の芸術は、中世、ギリシャ時代、我がオランダの巨匠レンブラント、ポッター、ハルス、フェルメール、ファン・オスターデ、ライスダールの芸術と同じようなものだ。いつまでも生き続ける。
日本の芸術家は、手前と奥の間の空間を構図の中から省くことがよくあります。手前にあるものはしばしば誇張して大きく描写されます。また、画面の枠外に地平線が設定されている例も多々あります。あるいは、画面の端で描かれているものを故意に断ち切ることもあります。
西欧の芸術家たちがこれらすべてから学んだことは、必ずしも伝統に則った手法で―除き箱をとおして見たように手前から画面の奥を覗くように画面を構成する必要はないということでした。
ファン・ゴッホの時代に日本の様式を取り入れて制作された美術作品をジャポネズリと呼びます。この雨の橋の絵も、ジャポネズリの作品です。彼は有名な日本の浮世絵師、歌川広重の版画を手本に用いました。
ファン・ゴッホはこの美人画を、雑誌『パリ・イリュストレ』の日本特集号(1886年5月)の表紙をもとに描きました。この女性が花魁(娼婦)であることは、帯が背中ではなく正面で結ばれていることからわかります。
ファン・ゴッホは花魁の周りに泉を配し、竹、睡蓮、カエル、鶴を描き込んでいます。それらのモチーフは彼女の仕事を暗示しています。鶴のフランス語であるgrueには、娼婦という意味もあります。
カエルのフランス語grenouilleは卑しい女の代名詞でもあります。
日本の版画を模写するだけではとどまりませんでした。ファン・ゴッホの芸術家仲間エミール・ベルナールは、近代芸術が向かうべき方向について新たな概念を発展させました。日本の版画を手本に、彼は自らの絵の様式化を進めました。彼は単純化した色彩の広い面と太い輪郭線を用いました。
ベルナールの影響を受け、ファン・ゴッホも目の錯覚を利用した画面の奥行き表現よりも平面的に描こうとしました。ファン・ゴッホは自らの作品の中で、渦巻くような筆致と組み合わせて平面性を追求しました。
ファン・ゴッホは自らの自画像とエミール・ベルナールが描いたこの作品を交換しています。ここで目を引くのは大きな黒い色面です。ファン・ゴッホと同年代の画家たちは黒をあまり用いませんでした。ファン・ゴッホはベルナールに、彼の最も素晴らしい作品だと思うと伝えました。
ファン・ゴッホは、この作品を自由闊達な筆さばきで描きました。彼はこの筆遣いと、日本美術から取り入れた太い輪郭線で取り囲む鮮やかな色面を組み合わせています。
見てごらん、僕たちは日本の絵画芸術が好きなんだ、僕たちはその影響を受けているんだ―印象主義者はみな共通してその影響を受けている―では、日本に行かないならどうするか、日本と同じようなところ、南(フランス)だろうか?僕は新しい芸術は結局のところどうしたって南にあると思っている。
二年のパリ滞在ののち、ファン・ゴッホは都会の雑踏を後に旅立ちました。南フランスのアルルに彼が向かったのは1888年2月のことです。彼がアルルに求めていたのは安らぎ以外に東洋の版画の中の明るい光、陽気な色彩効果でした。汽車の中でも「もう日本に着いたかもと外をずっと見ていたよ!」「子供じみているだろう?」と、同様に日本の版画の影響を受けていた友人の画家ゴーガンに書き送りました。
ゴーガン同様、ファン・ゴッホも芸術家は鮮やかな色彩を求めて南の未開の地へ向かうべきだと信じていました。彼がアルルに向かったのもそうした考えからでした。
ファン・ゴッホは日本の芸術家たちが作品を交換し合っていると思っていました。彼はゴーガンとベルナールに同じことを提案し、お互いの肖像画の制作を頼みました。実際には、二人とも自らの自画像を描き、その代わりにファン・ゴッホも日本の修行僧―釣り目で短く髪を刈り込んだ姿の自画像を制作して送りました。
時が経つにつれものの見方が変わり、ますます日本人のようなものの見方をするようになり、色彩も違うように感じられてくる。僕の人格もここに長くいたら変わってくるに違いないと確信している。
ファン・ゴッホはアルルで芸術家の共同体を設立したい―日本の仏教僧たちのような共同生活をしたいと願いました。結局やってきたのはゴーガンひとりでした。彼は空想を用いて絵を描き、ファン・ゴッホにも絵を様式化するように勧めました。絵は、写真のようであってはならないというのが彼の意見でした。
ファン・ゴッホはこの作品の中でゴーガンに対し、ゴーガンと日本の木版画から何を学んだかを示しました。彼は以前にもまして作品を様式化しました。この場面は鳥瞰図的に(上からの視点で)捉えられ、地平線は画面外に設定されています。構図は斜めの線が強調され、色面を分断する木の幹によって画面が断ち切られています。
しかし、ファン・ゴッホとゴーガンの意見はあまりに違いすぎました。数か月の共同生活の後、ゴーガンはパリに帰ってしまいます。
ファン・ゴッホの病の兆候はこの時初めて表れます。彼は病院、そして後に療養院に入院し、自信を失ってしまいました。未来の美術の発展に寄与するという夢はあまりに高い目標に思われました。手紙からも日本の版画芸術に関する記述が次第に消えていきました。
ファン・ゴッホは生涯を通じて自然を出発点として制作し続けました。日本の芸術家もそうであることに彼は気がつきました。それと同時に日本の版画は彼に近代化のために必要なものを提供してくれました。彼は近代的かつ、よりプリミティブな絵画芸術への時代の呼び声に応えたいと考えていました。日本美術はその大きな色面と様式によって、自然を起点に置いたままで進む道を彼に示したのでした。
僕の作品はすべてどこかしらジャポネズリだ…
ここに掲載された文章は、1970年日本万国博覧会記念基金のご協力を得て作成されました。